2015年09月17日

これは替え歌ですか?

はい、はばとりです。


「干物豚(ひもうとん)!うるのちゃん」OP かくしんはん的☆ぶたまるふぉ〜ぜっ!

U・R・N! U・R・N! うりゅうぢゃないよ う・る・の!
U・R・N! U・R・N! うりゅうぢゃないよ う・る・の!

いつだって
全身全霊喰い倒せ! もっと もっと 膨らめよお腹
みんなに気付かれないように
いざ、ゆけ! 上野ライフ

お気にのうまい棒(おかし)かじり 今日も今日とてゴロゴロして
大好物の美少女(ギャル)ゲをしに パソコンとにらめっこしよう
立てば六尺座れば猪(ぼたん)歩く姿は事案モノ
誰もが忌避するBMI値
ほら攻略ググったらモンハンだ! さぁ一狩りしよう♪

いつだって
「喰う! 寝るzzz遊ぶ♪」のごくつぶし ずっと ずっと 先輩(サイフ)は友達
健診結果は厳しいけど キットカット 止まらなくなっちゃうの
ワガママ放題はひとりっこの証

U・R・N! U・R・N! うりゅうぢゃないよ う・る・の!
U・R・N! U・R・N! うりゅうぢゃないよ う・る・の!
はい、おしまいっ!

※1 やっつけです
※2 内輪ネタを大いに含む虞があります
※3 うまるちゃんとは何の関係もありません。うまるちゃんは名作です
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2015年09月13日

自身の見つめ直し

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカの福音書:14章11節)
イエスはこの言葉の前に
「結婚式に招待された際、あなたは末席に座るべきである。上席に座り、後に身分が高い人が来た際に席を譲るというのは恥をかくことであるからだ。逆に最初から末席に座っていれば、あなたを招待した者が、上席を案内するだろう。その時、あなたは面目を施すことになる」と言われています。

 ただ、自分のことを考え、前へ前へと出ようとすれば、顰蹙を買い、自身の評価を下げることになり、、慎み深く、常に相手のことを考え、思いやることが自分のために繋がるということであり、情けは人のためならずということわざを正に示すものであります。もちろん、すべての状況でこれが当てはまるわけではありません。慇懃無礼という言葉があるよう、相手に例を尽くそうとした結果、逆に相手を不愉快にさせてしまうことも多くあります。相手の方のことを考えながら、臨機応変に対応することもしなければなりません。

 最近では、功を焦っているのか、他人を思いやらず、自分のことしか考えていない人が多いように思われます。このようなことを言葉にしている私ですが、例に漏れません。そんな私ではありますが、ただ、心の片隅で良いので、自分が今驕り高ぶっていないか、相手を見下すような態度を取っていないのかを冷静な目で見ることを心がけることの大切さについてお伝えしたいのであります。ほんの少し、自分を抑え、相手を大切にしようと心がければ、心穏やかに過ごせるでしょうから。そして、多くの場合、相手もきっとまた、心穏やかでいられるでしょうから...

 以上をもちまして、本日のお話を終わらせていただきます。ご拝読、ありがとうございました

〜あとがき〜
聖書って、心にグサグサくる言葉、結構あるんですよね。仏典は人の儚さを伝え、心穏やかにさせるものだなぁなんて思うのですが、聖書はノホホンと生きるのを許さず、生き様の反省を求めてきているような気がします。なので、自分を律そうとする人には良いのかもしれないなんて思いました(小並感)

勉強の一環で、聖書ばっかり読んでたらこんな文章書いてました。勢いって、すごいです 
by某4回生R
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2015年09月05日

とある衛生兵への追憶

国境近く。木々もろくに生えぬ山の上に着くと、眼下には圧巻の広大なる土地が広がっている。ウラジオストクとは指呼の間である。成程、「後ろはげ山、前ソ連」とは言ったものだ。
上田悟志がソ連国境近くのこの地に着いてからいくらかの時が過ぎた。
冬場には零下20度にも達そうかという地である。尿をすれば凍りかねない。凍傷を避けるためによく振れと教えられたことを思い出した。
しかし既に冬は去り、夏を迎えている。先年に満州に配属が決まってから、1年と何か月だろうか。確か19年の1月に学校で送別会が行われたのだから……。彼はふと、背中側より海を越えて向こう、故郷の事を思い起こした。

悟志の生まれ育った地は、神戸市と言いつつも、山中の村である。川のこちら側に5隣保、60軒あるかないかといった具合である。
戦争の続く昭和18年、彼は徴兵検査を受け、第一乙種として徴用されることとなった。
この時悟志は村唯一の海外への出征者であり、周囲は彼をほめそやした。
しかしひとり、これに反対したものがいた。彼の母である。
実は先立つ昭和13年、悟志の兄が中国北部に戦死していた。兄は地域の第一戦死者となった。
「私は兄を死なせたから、せめて悟志は内地に置いといてくれ。陸軍大臣にそう言いに行く」
息巻いた母を説得するのは大変だった。「天皇陛下の為」という文言のもと、戦死が名誉とされた時代である。

悟志は苦笑交じりに意識を引き戻した。
陸軍病院に戻ってきた。彼の任地である。南満州で最大の病院だった。
彼は、中佐である病院長の当番兵、つまるところ使い走りであった。当番兵は外出が認められていた。
また教育上等兵となった彼は、同時に院内の嫌われ者でもあった。何せ軍隊の教育とは私的制裁を伴うものである。女性であっても例外とは言えない。看護婦の担当となれば、彼女らのほほをつねったものである。
戦争激化により、それまで満州にあった300万と号する兵隊も、次々と南方に送られた。後背のソ連とは不可侵条約が締結されていたからである。病院だけはこの地に残っていた。
その南方では、日本軍の戦況が刻々と悪化していることを、彼らは知らされなかった。そして内地では新型の爆弾が投下されたらしいことは知ったが、一体如何程の事態かは理解しきれなかった。

そんな満州の平穏は、突如終わりを告げた。
8月9日、ソ連侵攻。
昨日までの味方が、敵となってなだれ込んできた。陸軍兵士は殆ど残されていない。
兵隊には天皇陛下の為、最後の一人まで戦うように告げられた。一方、傷病兵は列車で朝鮮を経由し、内地へ運ぶことなった。悟志はこれに付き従って病院を引き払った。

……後に知ったことだ。列車に乗せることもままならないような危篤患者らがいた。彼らに対しては注射が施された。注入された液体は推して知るべしである。

動乱の中、20日ごろに彼らは敗戦を知った。
患者を内地に送る際に、兵士・看護婦も帰れるのではないか。悟志はそう思った。しかしその思いは打ち砕かれる。
――「日本兵は帰さない」 彼らは朝鮮に入ることがかなわなかった。
やむを得ず満州鴨緑江に病院を開き、ここでしばらく休息するように命じられた。
だが安息は束の間とて訪れない。以下の言が下る。
「看護婦は病院でやっていけるだろう。お前たち兵隊については、自由にしろ」
事実上の解散宣言である。彼はついに軍から見放され、身一つで放り出される格好となったのだ。
悟志は数日の逃亡の末、蘇家屯駅(現建寧省瀋陽市蘇家屯区)の駅長宅に駆け込んだ。この間水以外を口に入れた記憶がない。やっとの思いでたどりついたのだった。
土下座をし、「給料は要らないから、飯だけ食わせてくれ」と頼み込む。軍服姿の彼を見ながら、駅長は返答する。
「逃げた兵隊を使っているのがばれたら、わしは命がいくらあっても足りない」
当然である。駅長とてわざわざ死の危険を好き好んで招き入れはしない。懇願も聞き入れられないのか――

その時、救いの手が差し伸べられた。「わしの息子として、住んでいい」
言葉を発したのは、駅の助役で飯山という男だった。悟志はようやく仏に巡り合えた気分だった。

飯山は悟志を伴って社宅に戻った。飯山を迎えた妻は、思いもよらぬ手土産に仰天した。「逃亡兵を連れてくるなんて」
やはり許されないのか。突然空腹が存在感を膨らませる。食べるものも残っていない。自殺するしかないのだろうか。
絶望を再び突きつけられた悟志を横目に、飯山は妻をゆっくりと諭した。
「我々も内地に必ず帰れるわけではない。まずは一か月でも暮らそう」
飯山の家で、悟志は初めて軍服を脱ぐことが出来た。安堵からだろう、そこで恩人である夫婦に振舞われた飯の美味いこと美味いこと……。
それから飯山は、濁ったどぶ酒と、できる限りの御馳走を用意して、隣保を集めた。
「悟志はわしが芸者に産ませた子だ。恥ずかしいから北満の開拓団へやっていたが、敗戦で解体となったから引き取った。よくしてやってくれ」
そう語り、宴席の出席者に頭を下げて回った。

山梨出身だと言う飯山夫妻には子がなかった。
肌身離さず持っていた、母から渡された品々。「上田悟志」と書かれていたそれらを焼き捨てた。飯山は悟志に身分証明書を授けてくれた。そこには「飯山悟志」と書かれていた。
彼は飯山悟志として生きることを決意したのだ。

飯山の友人に頼んで、機関車仕事に携わることとなった。
始めは機関車の掃除をしていたが、火床に燃料をくべる仕事をするようになった。シャベルの扱いが機関士の間で評判となり、これに飯山は喜んだ。「チャンチュウを呑もう」と、濁り酒を片手に悟志を褒めた。
またある時は社宅のそばで鉄板焼きの屋台を開いた。
内地でも滅多に手に入らない鰹節を購入し、削り節を屋台に置いて言うのだ。
「うちのが美味い理由は"これ”だ」と。
無論このような高級品用いるわけはなく、かしわのガラを焚いて汁にした。
人気が出た結果、機関車の仕事を休まなければ、というほどに客が来るようになった。

彼らは皆、生きて日本に帰れると思ってはいなかった。悟志自身もよく、「どうせ満州に骨をうずめる。今日は美味いものでも食おう」という気分になった。
これからも飯山夫婦の子としてこの地で生きる。それは夫婦にも、悟志にも共通していた考えであった。

そんなある時、彼らに日本への帰還が認められた。
日本に帰ることが出来る。悟志は夫妻と共に喜び、そして帰国の途に就いた。
貨物船に乗り込み、日本海を渡る。敗戦より幾星霜、悟志は祖国の土を踏んだ。
故郷に戻る悟志は、山梨に帰る夫妻と別れることとなった。悟志は、いずれ夫妻の住む村へ行くことを二人に誓った。

結局彼の住む村では、この戦争により25名の戦死者を出した。しかし彼にとってより重大であったのは、自身のおらぬ間に悟志と、同郷の女性の間で婚約がなされていたことだった。
これに飯山夫婦は反発、悟志は板挟みで苦しむこととなった。半年をこの村で、もう半年を山梨で暮らす案を考えもした。しかしこの問題は図らずも解消されることとなった。

悟志がたどり着いた場所は、自分の村にも引けを取らぬ山村だった。ひっそりとした山間の村の中、やはりひっそりと建っていた墓に、彼は静かに手を合わせる。
山梨に戻った夫妻はしばらくして、相次いで亡くなったのだった。

このこともあり、昭和22年3月、悟志は婚約者の女性と結婚することとなった。
彼は多くの子・孫、更には曾孫に恵まれて現在も故郷の地で暮らしている。


「また長話になってしまったな」 M宅さんはそう言って一息入れてから、また話し出します。
もう戦後70年。年月は祖父の記憶も容赦なく風化させてしまった。多分途中で気づいたと思うけど、命の恩人である夫婦だって、名字は出てきても二人の名前が出てこないんだ。一度行ったはずの、夫婦の住んでいた場所も分からない。
本当は風化させたままの方がよかったのかもしれない。祖父の周囲の人間は、戦争時のこの話を快く思っていない節がある。でもそれは責められることじゃない。彼らは戦後すぐの大変な時代を生きてきた。そんな彼らにとって、原因である戦争の話は、実に暗い、知りたくもない話なんじゃないかな。
それに祖父自身だってそう。この話を聞き取るに当たり、「自分のことについて記したいと思っていたんだ」と祖父は言っていたけど、もしそうなら、断片的にでも記録を残しているはずなんだ。
だとしたら、私がこうやって祖父の記憶を掘り起こそうとするのは間違いなのかもしれない。
「でもやっぱりね」M宅さんは続けます。
お酒を呑んで酔いが回った時、祖父は決まってこの時のことをこぼすんだ。やっぱり誰かに聞いてもらいたいんだよ。だからこれが、一緒にお酒を呑んであげられない孫の、数少ない孝行なんじゃないか、と思ってね。

それじゃあ宇留野君、これで私の話は終わり。ちょっとは時間つぶしになったかな。
そう言って締めくくりました。
(話中の人名は仮名です。また、M宅さんのお祖父さんの記憶に基づくため、間違いがある可能性があります)


posted by DSK会員 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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